2. 移民社会の問題点
日本が移民社会へとシフトしていくのは、もはや後戻りすることのない時代の流れだろう。今現在は新型コロナによる出入国規制によって、一時的に外国人の流入はほぼストップしているが、来年の東京オリンピックが開催される頃には全ての往来が解禁されていることだろう。少なくとも日本政府はそういうロードマップを想定しているはずだ。
さて、『移民社会』と一口に言っても国によってその雰囲気はかなり異なる。受け皿となる元の社会がどんな文化を持っていて、そこにどんな文化圏から来た人間がどれくらいの割合で混ざるかによって、その移民社会の性質は決まる。日本も移民受け入れが既定路線となった今、考えるべきは「移民の是非」ではなく、もう一歩進んで「どのような移民社会をデザインするか」といったような先を見据えた計画だろう。
移民流入による『賃金の低下』や『失業率の増加』といった経済的なリスクもあるが、多くの日本人が最も不安視しているのはむしろ、『文化の破壊』や『治安の悪化』といったより身近な問題だ。移民の群衆が道路を占拠してお祈りしたり、若者が犯罪を犯したり、あるいは過激思想に染まってテロリストになったりといった最悪のケースも、やがて対岸の火事ではなくなるかもしれない。そこまで行かなくても、移民が多数になった地域で、その土地古来の文化や風習が移民のもの中心になってしまうことは、保守的な日本人にとって感情的に受け入れ辛い。また、摩擦が強まれば、日本人の側からも移民=よそ者への反感や差別意識から、様々なトラブルを起こす者が出てくることは想像に難くない。
移民流入による社会の変容をこれまで経験してこなかった日本人にとって、その急激な変化に対する抵抗感は極めて強い。だからこそ、『元々の国民気質や文化的価値観が日本人と近い国の人間をより多く移民として受け入れることで、文化摩擦のリスクを低減する』という発想も重要になってくる。例えば、日本社会との親和性に応じて、それぞれの国からの受け入れ数の上限に差を設けたり、在留資格の条件を緩和したりして、出身国別の比率をコントロールする。かつての欧米のような「来るもの拒まず」といった受け身の移民政策ではなく、既存の移民社会の問題点を分析して、同じ問題が起きないよう対策を取れることは、これから移民政策を本格化する日本にとって有利な点なのである。
では、既存の移民社会にはどのような問題点があるのか。世界中の移民社会に共通している主要な問題として、さしあたり以下の5項目を挙げる。
・文化・思想・宗教的な摩擦
・言葉の壁
・経済格差
・治安の悪化
・移民の人口増加とそれに伴う行政への影響
以降、これらの問題を分析しつつ、日本社会との相性を見ていく。
【文化・思想・宗教的な摩擦】
この種の摩擦は、移民社会にとって宿命的なものと言える。そして、この摩擦の大きさは、基本的に差異の大きさに比例する。例えば、EU先進諸国には東ヨーロッパ出身の移民も多いが、同じ移民でもキリスト教系の移民とイスラム教系の移民では、後者の方が現地人との間により摩擦が生まれやすい。これは、宗教的な枠組みの方が民族的な枠組みよりも大きいためだ。そして、より大きな集団同士の摩擦ほど、その火花はより大きくなる。
その観点で言うと、日本は外界と隔絶された中で独自の発展を遂げた文化、独特な宗教観、極めて高い同調性などを持つ、世界的に見てもかなり特殊な社会である。例えば、日本社会では周囲への配慮が常に求められ、個人主義は冷遇される傾向がある。こういった特徴は閉鎖的な小集団でよく見られるものだが、日本の場合はそれが国全体のレベルで観察できる。一方、世界の国々の多くは多民族国家であり、そのため全体の論理より個人の論理が先行する土壌となっている。そういった社会で生まれ育った人間を何の方策も無しに流入させれば、欧米などとは比べ物にならないほどの摩擦が日本社会に生じてしまうだろう。
また、日本人の多くは宗教・信仰といったものに無関心、あるいは懐疑的だが、世界的に見れば大多数の人間が何かしらの宗教を信じている。特にキリスト教やイスラム教といった一神教は、その教義自体が他宗教や無宗教に対して不寛容なものであり、一般的な日本人の宗教観との相性は良くない。
また、宗教だけではなく、ナショナリズムやイデオロギーなども同様で、それらが自己同一性の中で大きな比重を占めている人間は、潜在的に「自分たちの社会は他より優れている」という認識が強いため、「郷に入っては郷に従う」という意識が低くなる傾向がある。これは宗教に起因するものというより、社会全体の雰囲気や個人の人格的な要素によるところの方が大きいだろう。一神教だから不寛容だとか、多神教だから寛容だというのではなく、生まれ育った社会が異教徒や異文化に寛容かどうか、あるいは、その個人が他者に寛容な性格かどうかが最も大きな要素と言える。
ただ、いかに宗教が決定的要素では無いとはいえ、一日5回お祈りをする豚肉を触れない人より、何でも食べて酒も飲む人のほうが日本社会では上手くやっていけるだろう、というのも事実ではある。
以上を大まかにまとめると、日本社会と比較的相性が良いのは非一神教、あるいは一神教でも世俗化が進んだ社会で育った人間だと考えられる。
【言葉の壁】
外国人が日本社会に溶け込めない最大の要因が言葉の壁である。そもそも日本語というのは、日本人が考える以上に特殊な言語である。世界を見れば、同じ地域の国々の言語はある程度似ている場合が多く、喋れはしなくても聞けば大体の意味がわかったりする。しかし、日本語は一番近いと思われる韓国語とも全く異なる音を持つ上、漢字という世界で最も複雑な文字を使っているため、外国人にとって非常にとっつきにくい言語だ。また、国際標準語である英語も日本では使えない人間が多数であるため、日本に住もうという外国人は日本語の習得に膨大な時間と資金と労力を費やさなければならない。これは高度な人材を獲得する上で、日本が最も不利な点だと言える。
例えば、あなたがどこかの国に住む優秀な技術者だったとしよう。優秀な技術者なのだから当然、英語は問題なく話せる。そこでより高い収入を求めて海外で働こうと考えたとき、果たして日本という選択肢が上位に来るだろうか。すでに平均所得も労働環境も欧米各国に劣り、しかも日本語という他では使えないローカル言語を何年もかけて学ばなければならない。私なら特別な理由がない限り、日本は選ばないだろう。つまり、特別な思い入れでもない限り、今の状況で日本に来る外国人のほとんどは他の先進諸国に行けなかった二流以下の人材ということになる。
この現状を打破するためには、日本がどこでも英語が通用する社会にならなければならない。日本人の英語に対する認識はいまだ極めて低いと言わざるを得ないが、発展途上国も含め、世界ではもはや『英語を使えない人間=教養の無い人間』と見られているのが現実である。小中高の英語教育を見直し、誰でも最低限の読み書きと会話ができるようにしなければならない。大手企業は日本の大学の新卒採用にこだわるのではなく、日本語が話せなくても広く海外から直接応募できるような環境を整えるべきだ。また、優秀な人材を早期に獲得するため、英語で講義を受けられる大学を増やし、外国人留学生がダイレクトに日本の大学に入学できるようにすることも重要だ。
以上は高度人材に関するものだが、実際の外国人労働者の大部分は単純労働者である。言葉の壁による摩擦を減らすためには、日本が英語の通用する社会になることも必要だが、それには数十年の時間がかかるだろうから、当面は外国人労働者に日本語を勉強してもらわなければならない。しかし、前述したように日本語というのは、英語・フランス語・スペイン語・中国語などと比べても、コストパフォーマンスが低い。だからこそ、「それでも日本語を習おう」という意欲を持った人間を優先的に受け入れるべきなのである。例えば、日本の経済水準は発展途上国の中流階級以下の人々にとって未だ魅力的であり、日本で働ければ人生が変えられると言っても過言ではない。そのチャンスが得るためにアジアの多くの若者達は、極めて熱心に日本語を勉強している。そういった国々で日本語学習のサポートをすることは、将来的な日本社会の移民問題を緩和する、という観点からも非常に重要であろう。
日本語学習のサポートと言えば、在日外国人の子供たちへのサポートも忘れてはならない。日本の学校に在籍する外国人児童の数は年々増加しており、現在は10万人近くにまで達しているが、実にその内の40%ほどの児童は「日本語指導が必要」と判定されている。つまり、4割の子供が教室での授業についていけていないのである。せっかく子供の時から日本にいて、内面的には日本人と同じように育てられるのに、これではその育成のチャンスをみすみす棒に振るようなものだ。これは外国人に生活保護を給付するのとはワケが違う。日本社会が日本の子供として育てれば、国籍がどうだろうが本質的には日本人なのだ。きちんと育てれば、それはやがて日本社会に利益として還元される。教育とは未来への投資である。教育するチャンスがあるのにそれをしないのは、資源を無駄にする行為と言えよう。
(続く)
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