2021/05/10

最貧国ネパールと新型コロナ

  このところ、天気の悪い日が続いている。本来であればこの時期は一年で最も暑い時期なのだが、今年はいまだにジャケットが手放せない。
 お隣のインドでは新型コロナの第2波が猛威をふるっているが、そのインドと密接な関係のここネパールでも感染者が爆発的に増加している。ポカラでも2週間ほど前から2度目のロックダウンが始まっていて、街の雰囲気も空模様と同様にドンヨリと曇っている。

 第1波の時は人々にもそれほど緊張感はなく、感染拡大もどこか遠くの出来事のような雰囲気があった。だが、第2波ではホステルの生徒が通う学校や、村の学校の生徒の家庭からも感染者が出ていて、感染がより身近に迫っているように感じる。

 今回のロックダウンは当初、比較的緩やかな制限だった。店も普通に開けている所が多かったし、バスやタクシーなども走っていた。しかし、感染拡大が止まらないので、先週から最も厳しいレベルに引き上げられた。病院、薬局、ガソリンスタンドは通常通り営業しているが、その他の店には休業命令が出されている。生活必需品を売る店も朝5時から9時までの間だけしか開けることを許されていない。それ以外の時間は警察の車両が街中を巡回して、シャッターを少しでも開けている店があれば笛を吹いて警告している
 車両も医療関係や生活必需品を運ぶものを除いて、基本的に全て使用禁止になっている。ただ、現時点では警察もポカラへの出入りには厳しく目を光らせているものの、市内の移動に関してはそれほど気にしていないようで、規制を無視して走っているバイクや乗用車もチラホラ見かける。

 学校はロックダウンの数日前から閉鎖されている。本来であれば4月から新学年が始まっていたはずなのだが、今年はいまだ学年末試験の日程すら未定だ。また、一斉休校に先立って、全ての授業をオンラインで行うよう全学校に通達があった。都市部の学校だけでなく、農村部や山間部の学校も全て、である。
 これがどれだけ無茶な指示か分かりやすく喩えるなら、文科省がいきなり日本全国の学校にアイスホッケーを必修科目にするよう通達したようなもの、と考えてもらいたい。学校はスケートリンクを作らなきゃならないし、教師はルールを調べなきゃならないし、生徒は道具を揃えなきゃならない。
 誰がどう考えても無理な要求なのだが、それを平然とやってのけるのがネパールという国の行政である。とは言え、ネパールの政治家や役人たちが救いようのない無能ばかりだという事実については10年以上前から気付いていたので、今回の迷走っぷりにも特に驚きは無い。10年経っても相変わらずの役立たずであることを改めて確認しただけのことだ。
 日本国内でも政府への批判がメディアやSNS上で飛び交っているが、ネパール政府の無能っぷりを目にすれば、文句を言っている日本人がいかに恵まれているかを実感する。
 本当にダメな政府の下では、文句など言ってても何も変わらない。持たざる者は顧みられることなく、置き去りにされるのが途上国の現実である。状況を少しでも良くするためには自助努力しかない。学業はその最たるものと言えよう。

 ネパールでも主に都市近郊の私立校を中心に、去年の秋頃からオンライン授業が本格的に始まった。しかし、やはりここでも教育格差が生まれていた。
 格差の生まれる要因は大きく分けて、三つある。

 一つ目は、コストの問題だ。オンライン授業を受けるためには、最低でもスマホとネット環境が必要になる。最近は2万円程度の安い端末も売られているが、オンライン授業のために平均月収並みのお金をポンと出せる家庭は(都市部を除けば)そう多くない。スマホの普及率は農村部でもかなり高くなっている(8割以上?)が、貧困層ではまだ持っていない親も多い。
 ネット回線は月1500円程度から利用できるが、ネパールの農村部の一般家庭にしてみれば決して気軽に出せる金額ではない。私が教えている学校がある村でも、ネット回線を契約している家はまだ1割ほどしかない。その代わり、スマホのデータ通信が安くて速度もそこそこ出るので、ほとんどの人はデータ通信でネットをしている。ただ、データ通信でオンライン授業を受けようと思ったら、DSL回線の月額と同じくらいかかるだろう。

 二つ目は、地理的な問題だ。光ファイバーも普及しているような都市部ではWiFiを設置している家も多いが、一方、郊外のネット普及率はいまだ低く、地方に至ってはそもそも回線が通っていない所がほとんどだ。また、都市部から離れるほど平均収入が低下するのは言うまでもないが、それがネットの普及が遅れている要因の一つでもある。

 三つ目は、学校の問題だ。ネパールでは公立校の環境が劣悪なので、ある程度以上の経済力がある家庭の子供は皆、私立校へ通っている。そのため、ネパールでは私立校の数が公立校のそれを何倍も上回っている。私立校なら、オンライン授業をしなければお客(生徒)が逃げていってしまうから、どの学校も積極的に取り組んでいる。一方、公立校の教師の多くはそう言った危機感やモチベーションが薄いので、オンライン授業もおざなりになりがちだ。
 加えて、教師の能力自体も平均的に低いので、オンライン授業のやり方が分からない者がほとんどだ。全授業のオンライン化は行政側のお達しなのだから、行政はそのマニュアルか何かを配るべきなのだが、もちろんそんな能力も意欲も責任感もありはしない。結果、公立校に通う貧困層の子供たちが一番割りを食うことになる。

 幸い私の学校には意欲的な教師が何人かいて、オンライン授業にも関心を持っていた。私も日本にいる時にネパールの生徒にオンライン授業をしていたので、そのやり方を教師たちに教えることができた。まずはZOOMをダウンロードすることから始めて、アカウントの作成や設定、スクリーン共有などを使った授業のやり方などを教えた。
 私にZOOMの使い方を教わった教師が、保護者たちにもオンライン授業の参加方法を広めた。参加に必要な私や教師たちのIDやパスコードも伝えた。そして、私は5年生に最初のオンライン授業を行った。
 5年生クラスには10人の生徒がいるが、最初のオンライン授業の参加者は3人だった。少ないが、最初はこんなものだろう。時折、ネット接続が切れたり音声が途切れたりしつつも、とりあえず授業はできた。
 授業が終わり、校長と「WiFiが無い家やスマホが無い家の生徒をどうするか」という話になった。無いものはどうしようもないので、スマホやWiFiのある友達の家で一緒に授業を受けてもらうよう保護者に伝えた。次の日は、6人が参加した。3人で一緒に参加した生徒たちもいた。
 何日か経ってある程度この新しい試みが軌道に乗ってくると、今度は4年生の保護者の多くからもオンライン授業をして欲しいという要望が出たので、4年生にも授業を行うことにした。他の教師たちも時間割を決めて、それぞれオンライン授業を始めたようだ。
 やがて何らかの理由で参加できなかった生徒たちも、ある生徒はクラスメートと一緒に、ある生徒は親戚のスマホから、ある生徒は校長の家のWiFiから、といったように何かしら方法を見つけて参加してくるようになった。結果、わずか10日ほどの間にこの村でもオンライン授業がほぼ定着した。これは大きな進歩であり、また、私にとっても新鮮な驚きだった。

 オンライン授業は今でも毎日続いている。オンラインなので授業数自体は少なくなったものの、授業の効率にはあまり影響は出ていない。それどころか、むしろ向上したように感じることもある。
 まず、毎日決まった時間に始められることが大きい。対面授業では教師が欠勤することが多かったり、学校に居ても時間通りに教室に行かなかったりして、実際の授業時間の2~3割は無駄になっていた。だが、オンライン授業では教師がミーティングを始めなければ生徒たちも入室できないので、教師たちも時間にルーズではいられなくなった。
 私語が少なくなったのも大きい。周りにクラスメートがいる対面授業では、周りの席の子とおしゃべりを始めたり、授業に集中できなかったりする生徒が多いが、オンラインではそうした横からのノイズが少ないので、生徒たちは対面授業よりよく話を聞くようになった。
 画面共有の機能も非常に便利だ。生徒は画面に注目しているので、ホワイトボードや画像共有などで要点をピンポイントで見せることができる。(ただ、これに関しては、まだ使いこなせている教師は少ない。また、スマホしか持っていない教師も多く、物理的に画面共有が困難・不可な場合も多い)

 唯一の課題は、途上国なので接続がかなり不安定なことだ。一時的な回線やデバイスの問題で出席できなかったり、頻繁に起こる停電で接続が切れたりといった障害は常に起きている。また、生徒の欠席率も対面授業に比べて高い。オンライン授業では欠席することへの罪悪感や焦燥感が薄れる傾向があるのだろう。だが、そういったマイナスの面を考慮してもオンライン授業は、特に教育格差の下層にとって対面授業と同等以上の有効性を持っていると感じる。

 新型コロナによって世界中で教育のIT化が一気に進んだ。今後、この流れがさらに加速すれば、ネットの出現によって先進国と途上国間の情報格差がほぼ無くなったように、地理的・経済的要因による教育格差もやがて過去のものとなるかも知れない。そんな夢のような未来の可能性を、この最貧国の農村の変化の中に私は見た。「禍福はあざなえる縄の如し」と言うが、新型コロナがもたらしたのは禍だけではなくて、もしかしたらそれと同じくらい大きな飛躍をも人類にもたらすのかも知れない。

2020/09/08

日本社会と移民 ②

2. 移民社会の問題点

 日本が移民社会へとシフトしていくのは、もはや後戻りすることのない時代の流れだろう。今現在は新型コロナによる出入国規制によって、一時的に外国人の流入はほぼストップしているが、来年の東京オリンピックが開催される頃には全ての往来が解禁されていることだろう。少なくとも日本政府はそういうロードマップを想定しているはずだ。
 さて、『移民社会』と一口に言っても国によってその雰囲気はかなり異なる。受け皿となる元の社会がどんな文化を持っていて、そこにどんな文化圏から来た人間がどれくらいの割合で混ざるかによって、その移民社会の性質は決まる。日本も移民受け入れが既定路線となった今、考えるべきは「移民の是非」ではなく、もう一歩進んで「どのような移民社会をデザインするか」といったような先を見据えた計画だろう。
 移民流入による『賃金の低下』や『失業率の増加』といった経済的なリスクもあるが、多くの日本人が最も不安視しているのはむしろ、『文化の破壊』や『治安の悪化』といったより身近な問題だ。移民の群衆が道路を占拠してお祈りしたり、若者が犯罪を犯したり、あるいは過激思想に染まってテロリストになったりといった最悪のケースも、やがて対岸の火事ではなくなるかもしれない。そこまで行かなくても、移民が多数になった地域で、その土地古来の文化や風習が移民のもの中心になってしまうことは、保守的な日本人にとって感情的に受け入れ辛い。また、摩擦が強まれば、日本人の側からも移民=よそ者への反感や差別意識から、様々なトラブルを起こす者が出てくることは想像に難くない。
 移民流入による社会の変容をこれまで経験してこなかった日本人にとって、その急激な変化に対する抵抗感は極めて強い。だからこそ、『元々の国民気質や文化的価値観が日本人と近い国の人間をより多く移民として受け入れることで、文化摩擦のリスクを低減する』という発想も重要になってくる。例えば、日本社会との親和性に応じて、それぞれの国からの受け入れ数の上限に差を設けたり、在留資格の条件を緩和したりして、出身国別の比率をコントロールする。かつての欧米のような「来るもの拒まず」といった受け身の移民政策ではなく、既存の移民社会の問題点を分析して、同じ問題が起きないよう対策を取れることは、これから移民政策を本格化する日本にとって有利な点なのである。

 では、既存の移民社会にはどのような問題点があるのか。世界中の移民社会に共通している主要な問題として、さしあたり以下の5項目を挙げる。

・文化・思想・宗教的な摩擦
・言葉の壁
・経済格差
・治安の悪化
・移民の人口増加とそれに伴う行政への影響

 以降、これらの問題を分析しつつ、日本社会との相性を見ていく。

2020/05/01

COVID-19: トリアージ

 新型コロナの感染拡大を止めるため、今、世界中ほとんどの国で活動自粛が行われている。日本でも連日自粛の強化を呼びかける報道がなされ、社会全体が公私にかかわらずあらゆる活動を停止させようと動いている。未知のウイルスにより既存の社会システムが根底から揺らいでしまったことにより、人々は一種のパニック状態に陥ってしまっているのだ。
 しかし、現実的に言って、これほど広範囲に渡る活動自粛には限界がある。自粛を続ければ続けるほど、経済的なダメージが累進的に増大するからだ。経済が破綻すれば、医療崩壊とは比べ物にならないほどの死者が出る。だが、いまだ多くの人々はその現実に目を向けていない。コロナによる犠牲者を一人でも減らすため、その他の損害を度外視した政策が国民の圧倒的支持の下に進められている。
 日本の新型コロナ対策は数ヶ月以内に転換点を迎えるだろう。その兆候はすでに他の国々で表出している。ロックダウンに反対するデモが起きているアメリカや、感染抑制を放棄して早期の集団免疫獲得を目指すスウェーデン、あるいは単純に経済を優先させているブラジルなどがそうだ。
 多くの日本人はこういった動きを『愚行』と認識している。WHOや政府、そして専門家たちが疫学の観点から、「そんなやり方では多くの犠牲者が出る」と言っているからだ。しかし、「感染拡大を阻止する」という目的においては間違った選択だとしても、「国民の幸福」という目的においては正しい選択なのかもしれない。感染拡大を阻止して1万人の高齢者を救ったとしても、経済を崩壊させて1万人の労働者を自殺に追い込んでしまっては本末転倒だ。近視眼的な人権思想がより多くの人間を死なせることもあるのだと、我々は知っておかなければならない。
 いつだって国家の第一の目的は「国民の幸福」であり、全ての論理はその前提の下に展開されなければならない。だが、多くの人はこの二つを同一視してしまっているが故に、自粛が唯一絶対の解決策だと盲信し、要請に従わない人々を悪と決めつけ誹謗中傷しているのである。

 近頃よく耳にする『トリアージ』という言葉は、『選別』を意味するらしい。医者が助かる見込みがある患者を優先して治療し、そうでない患者は見殺しにする。そうしなければならないほど医療現場は逼迫している。
 そして、このトリアージはやがて医療現場だけに留まらず、社会全体に広がっていくだろう。誰の生活を優先的に守るのか。若者か、老人か。マジョリティか、マイノリティか。全ての国民の生命財産を保障できなくなった時、『大の虫を生かすために小の虫を殺す』という社会の原則、すなわち国家によるトリアージが発動することを我々は覚悟しておかなければならない。

2020/02/29

日本社会と移民 ①

移民政策

 超高齢化社会の時代に突入した今、日本は開国以来の大きな転換点に立たされている。それは『移民受け入れ拡大に踏み切るか否か』という選択である。政府は移民に対する日本国民の不安や反感を考慮し、公には移民政策とは表現していないが、事実上の移民政策はすでに始まっている。『技能実習生』やその短縮版とも言える在留資格『特定技能』の新設がそれである。

 移民受け入れ拡大の是非については国内でも大きく意見が割れている。元来、移民政策は経済の活性化には繋がるものの、それと引き換えに社会構造そのものを大なり小なり変容させてしまうリスクを持った諸刃の剣だ。だから、そういった変化に対する不安や恐怖は、移民社会の宿命なのである。特に日本人は極東の島国に住む単一民族であるが故に、歴史的に常に世界からある程度の距離感を持ち続けてきた。そのため、平均的日本人の外国人に対する耐性は、世界的に見ても極めて低い水準にある。そんな人々の群れの中に突如知らない言葉を話す全く顔つきの異なる異国の人間が現れ、それがどんどん増えていくのだ。移民流入とそれに伴う日本社会の変容への不安感はむしろ恐怖とさえ呼べるだろう。
 このまま移民が増え続ければ、そう遠くない将来、日本社会全体が移民に対して猛烈なアレルギー反応を示すようになることは想像に難くない。最悪の場合、日本人のコミュニティと在日外国人のコミュニティがお互いに対して排他的になり、日本社会が分断される可能性もある。移民の受け入れはそういった底の見えないリスクを内包しているのである。