2015/10/13

ネパール新憲法の試練

 ネパール新憲法の発布から一夜明けて、まだまだ街には祝賀ムードが漂う中、突如、その熱気に冷水どころか液体窒素を浴びせるようなニュースが流れてきた。それは「インドが新憲法の内容に反発し、ネパールとの国境を閉鎖した」というものだった。
 これはネパールの新たな船出が、出航翌日にして早くも最大級の嵐に見舞われた事を意味する。



 「国境が閉鎖される」と聞いても、日本人にはイマイチ実感しにくいと思う。島国である日本は、全方位に広がる海を通じて世界中の国々といくらでも交易ができるからだ。優れた製品を作り出せる技術力があるお陰で売るものにも困らないので、国内の天然資源に乏しくても食料自給率が低くても、特に問題なくやっていけている。
 他の国々にしても、隣国との国境が閉鎖されて直ぐに深刻な事態に陥る、という事はあまり無いだろう。しかし、殊にネパールの場合、インドとの国境が閉鎖されるという事は、この国が『陸の孤島』と化す事と同義なのである。

 海に面していない山国ネパールは、南北をインドと中国(というか、チベット)に挟まれている。日本と同様、天然資源に乏しく、特にガソリンやプロパンガスなどの化石燃料はインドからの輸入に依存している。それも原油で買って国内で精製するのではなく、インドが自国用に精製したものを『分けてもらっている』のである。そのため、国境が閉鎖された場合、真っ先に問題となるのがこれら燃料の枯渇だ。
 これまでもインドからのガソリン供給が止まり、スタンドにバイクやバス・タクシーなどの行列ができる事はたまにあったが、それらはあくまでも一時的なトラブルに過ぎなかった。しかし、今回のケースでは、すでに発布された憲法が争点となっているだけに、正直、どれくらいで解決するのかまるで先が読めないのである。

 どんなに力関係で上下があろうと、曲がりなりにも一独立国の憲法にケチつけるなど、内政干渉以外の何物でもない。それに、憲法草案を作成している最中にもネパールの外相がインドに行って、インド政府の支持を取り付けてきた、というニュースも目にした。それが、こんな最悪のタイミングで、やっと歩き始めた子供の足を引っ掛けるような真似が出来るものだろうか。‥‥まぁ、インド人なら何をやっても不思議では無いが。
 ただ―――これは後々分かってきた事だが―――、「インドがネパールの新憲法に反発した」というのは、正確な表現ではなかったようだ。どちらかと言うと、「懸念を表明した」といった所だろう。その『懸念』とは、憲法草案が出来上がる過程で、ネパール南部に住む民族が、草案の内容に対して強烈な拒絶を示した事による。
 ネパール総人口の約3割を占めるこの『マデシ』という民族は、国境の反対側に住むインド人と同じ民族で、彼らがインド・ネパール両サイドで国境を封鎖している、というのが実際の状況である。

 この7年の間にも、各地の各民族がひっきりなしにデモやストを行って、自分たちに都合の良い憲法を求めてきた。その中でも草案に対するマデシの反発は特に激しく、警官隊との衝突などで既に40人以上の死者を出している。その彼らが拒絶している新憲法の内容とは、ネパールの新しい行政区割である『州』についてである。
 新憲法では、これまでの行政区を廃止して新しく7つの州に分ける、となっている。しかし、新しい境界線は、マデシがこれまで支配していたインド国境沿いに広がる平野地帯をいくつもの行政区に分割してしまっていた。それは即ち、マデシがこの地域での支配力を失ってしまう事を意味している。
 では何故、政権議会はあえてマデシの支配地域を分断するような境界線を設定したのか。その理由は、この細長い平野地帯がネパール全体にとって、地政学的に最も重要な地域だからである。

 前述のように、ネパール社会は燃料だけでなく、建築資材や工業製品などほとんどの物資をインドからの輸入に依存している。それら物流が必ず通過するのが、マデシの影響下にあるこの平野地帯なのである。さらに、この地帯にはネパールの工場も集中しており、この肥沃な土地で育てられた野菜や穀物はネパールの食料自給率を支えている。その物流と生産のほとんどが、マデシが続けているネパール式ストライキ『バンダ』によって強制停止させられ、ネパール全体が兵糧攻めに遭っているのである。

 国境が閉ざされて3週間になる現在のカトマンズやポカラの状況は、かつてないほど深刻である。
 街中を走る車の数は、ざっと見て普段の4分の1以下にまで減っている。空のガソリンスタンドにはバスやタクシー、バイクなどが長蛇の列を作っているが、給油再開の目処が立たないまま、夜もそのまま置きっ放しになっている。バスの本数も激減しており、カトマンズとポカラを結ぶツーリストバスすらも一日2本しか走らなくなった。国内線はまだ通常通り運行しているが、それもいつまで続くかは分からない。
 また、プロパンガスも底をつき、すでに多くのレストランが休業に追い込まれている。一般家庭も薪や練炭を使い始めている。もうすぐ一年で最も盛大に祝われる『ダサイン祭』の時期だが、状況は改善の兆しを見せない。
 野菜や穀物、食料雑貨なども品薄になり、値上がりが続いている。野菜全般が普段の1.5~2倍に値上がりし、鮮度も落ちてきている。中でも玉ネギは普段の4倍近くにまで高騰している。
 これらの問題は、ネパール最大の国内産業である観光業にとっても、当然、計り知れない影響を及ぼしている。今年4月の大地震以降、ネパールを訪れる観光客数は地を這うような状態だったが、ベストシーズンの秋を前にして徐々に旅行者が戻ってきていた。本来なら10月・11月は最大の稼ぎ時だったのだが、これで全て台無しである。

 インドからの物流がデモ隊に妨害されただけで、ネパール全土が干上がってしまう。逆に言えば、それだけの力が今までマデシに集中していた、という事である。カトマンズの政治家たちが強硬な姿勢でマデシの分断と弱体化を狙ったのも、ネパールの政治的自主性を考えれば必然と言えるのかもしれない。
 まぁ、彼らのやり方にも問題はあるが、しかし、曲がりなりにも民主的なプロセスで決まった憲法を、気に入らないからと言ってデモやストや暴動によって撤回させる権利はマデシにも無い。それは突き詰めれば、『暴力至上主義』に他ならない。ネパールが最貧国なのは今までずっとそうして来たからであり、だからこそこの再出発を機に、ネパール人全体が『法治』という近代的な考え方・振る舞い方を身に付けなければならないのだ。(ただ、識字率が5割しかないこの国でそれが実現するには、最低でもあと50年はかかるだろうが)

 何れにせよ、結果としてネパール政府は厳しい立場に追い詰められてしまった。状況は日増しに悪くなり、人々の不満は限界まで高まってきている。昨日は新首相が選出され、すぐにもインド首脳との会談に出向くらしい。また、裏では『あの国』も抜け目無く動き始めているようである。
 インドとの対話が上手くいくか不調に終わるか、何れにしても恐らく今週、何か大きな動きがあると私は見ている。

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