2015/11/18

なぜパリばかり注目されるのか

先日のパリ同時テロ事件のすぐ後から、世界中で建物をフランス国旗の色にライトアップし、フランスへの哀悼と連帯感を示す現象が見られた。
一日遅れて日本でも東京タワーとスカイツリーが青白赤の三色にライトアップされた。
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でも、多くの人が自分のプロフィール画像をトリコロールカラーにしている。
しかし、こういった世界の安っぽい連帯表明に対して、違和感を訴える声が大きくなっている。
その代表的なものは、以下の通りだ。

「なぜパリばかり注目されるのか」
「前日にレバノンでも40人以上が犠牲になる連続自爆テロが起きているのに、どうしてその事には誰も関心を示さないのか」
「アラブ人の命はフランス人のそれより軽いのか」
「これは人種差別だ」

こういったフランスとレバノンに対する人々の関心度の格差を指摘する声は、今やアラブ世界だけでなくそれ以外の人々にも広まっている。
フランスへの連帯に対抗して、レバノンの国旗を自分のプロフィール写真に重ねる人々も増えている。
そういったわけで、遅ればせながら私も自分のプロフィール写真をトリコロールカラーにしてみた。


私はフランスという国が結構好きだ。
フランス人の友人もいるし、実際に行った事もある。
だから、プロフィール写真をフランス色にしてみた。
何の手間も無い、ただ23回クリックしただけだ。
不均衡だとか差別だとか二重基準だとか、そんなこねくり回した解釈など必要ない。
好きなものを好きと言う、ただそれだけの事だ。
(ちなみにレインボーカラーはスルーした)

実際問題、フランスとレバノンに対して同じように関心を持ち、同じように同情する事など、世界中のほとんどの人間にとって不可能である。
なぜなら皆、フランスについては色んな事を知ってるが、レバノンについてはほとんど何も知らないからだ。
フランスの有名観光地、有名人や歴史上の人物、さらには芸術・ファッションなど、私たちはとても多くの事を知っている。
一方、レバノンについて知ってる人はどれくらい居るだろうか。
私はレバノンに行った事はない。
レバノンの正確な場所も国の形も知らない。
レバノンに住んでる友達もいない。
レバノン映画を観た事も、レバノン音楽を聞いた事も、レバノン料理を食べた事もない。
そんな私が「パリのテロと同じくらい、レバノンでのテロにも心を傷めている」と言ったら、それはどう考えても【嘘】だ。

関心や共感度というものは、【心理的な距離感】に比例するものである。
それが人間の当たり前の反応なのだ。
これは決して【命の重さ】に優劣をつけているのではない。
「近いものの方が遠いものよりよく見える」というだけの事である。
そして、自分にとってより身近なものを優先する事は【差別】ではない。
友人が入院したらお見舞いに行くのは普通だが、見ず知らずの他人のお見舞いに行く人間などいないだろう。
「フランスと同じようにレバノンやシリアにも関心を持て!同情しろ!」と言うのは、それくらいナンセンスな要求なのである。

もう一点付け加えるなら、アラブ社会がフランスと中東諸国を同列に扱うべきだと主張するのは、彼らが世界から見た自分たちの立ち位置を正しく認識していない事の現れである。
ハッキリ言って、中東での紛争やテロ事件などは、世界の大多数の人間から見れば【身内の揉め事】といった感覚に近いだろう。
いや、細かく見ていけばそんな単純ではないのだろうが、残念ながら世界はそこまで深く注視してくれない。
なぜ、シリア難民は同じイスラム教の中東諸国ではなく、キリスト教国のヨーロッパを目指すのか。
なぜ、イスラム国との戦いを中東諸国ではなく、欧米諸国が主体となって行っているのか。
「自分たちは差別されている」とひねくれる前に、これらの客観的事実をアラブ社会は真摯に受け止めなければならない。



自由、平等、平和、etc‥‥‥。
現代社会でほとんど絶対正義のように扱われているこれらの言葉も、それ自体に囚われ過ぎると当たり前の現実が見えなくなって【概念の迷路】に迷い込む。
シンプルに見れば、アラブ社会から発せられているこれらの違和感は単なる【フランスへの嫉妬】であり、それを誤魔化すために使われた【言葉】に世界中の潔癖症たちが釣られているだけだ。
でもね。
見せかけの善意で世界を覆っても、世界の本質は何も変わらないよ?

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