2012/06/24

宗教

最近、手塚治虫の『ブッダ』を読む機会があったので、今回は少し宗教について書いてみたい。

問: あなたは、「欧米人の思考がよく分からない」と思った事はありませんか?

この質問に「いいえ」とハッキリ答えられる日本人は、ほとんど居ないだろう。
これは日本人に限らず、アジア人全体に共通する感覚と言える。
だが、それは欧米人の側からしても同じようである。

西洋人と東洋人の間には『壁』がある。
以前、コルカタに集まった様々な国から来たボランティアたちを見ていて、私はそう感じた。
同じ場所で寝起きしていた彼らは、自然とそれぞれの文化圏でグループを形成していたが、各グループ間の交流はほとんど見られなかった。
一言で言うなら、これはいわゆる文化の壁というやつだ。
もう少し深く言及するなら、その元になっているのは西洋人と東洋人、それぞれの世界観の根本的な違いである。

西洋的な考え方の土台となっているのは、キリスト教である。
キリスト教は一神教、つまり、「全知全能の唯一神が世界の全てを創造した」という論理の宗教だ。
一方、東洋的な考え方の土台となっているのは、仏教・ヒンドゥー教・神道などの多神教だ。
そして、一神教多神教では、世界は全く異なった捉え方をされるのである。

一神教では、世界は唯一にして絶対の存在(=神)によって生み出されたものとされる。
これはつまり、全ての生物には決まった役割が神から与えられている事を意味する。
そして、全ての生物の頂点に立つのが、万物の霊長たる人類なのだ。
言い換えるなら、自然や他の生物は人間のために存在しているのである。
これが一神教的な世界観だ。

一方、多神教において、世界の成り立ちには複数の神々が関わっているとされている。
神々の活動の結果として今の世界があり、そこに一生物として人類が生きているのである。
そのため、一神教のような生物のヒエラルキー(上下関係)は存在せず、全ての生命の重さは等しい。

このように、一神教と多神教の最大の違いは、それぞれの自然に対する向き合い方にあると言える。
例えば
キリスト教には、『受託責任(Stewardship)』という概念がある。
神から与えられたものは責任を持って管理しなければならない、というものだ。
つまり、欧米人の認識において自然は、管理すべき人類の所有物として捉えられるのである。

一方、自然信仰から発展した多神教では、自然そのものが至上の原理とされる。
管理される事のない大きな流れの中で、それぞれの個が生きて死んでゆく―――その事実を個々がどのように受け止めるか、という問題なのだ。
そういった意味では、多神教というのは哲学に近いと言えるだろう。
こういった多神教的な考え方は、一見、宗教とは無縁の日本人にとっても馴染み深いものである。
それは日本人の精神のルーツが神道と仏教にあるからだ。
何でもミックスしてしまうのが日本人の特性だが、神道と仏教も長い年月の間に徐々に世俗化し混ざり合い、何だかよく分からない日本人の心とかいうものになったのである。
つまり、空気のように身近なものだから意識していないだけで、実際は、無神論者の日本人も部分的に様々な宗教の信者であると言えるだろう。

では最後に、西洋と東洋の世界観の違いを図式に表し、比較してみよう。
この違いを知っていれば、ぶっ飛んだ欧米人の発想もある程度理解する事は可能だろう。

西洋の認識: 自然 ≦ 人 <
東洋の認識: 人 < 自然 = 神

4 件のコメント:

  1. アニミズムは多神教と言えますか?

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    1. 本質的に同じだと思います。

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  2. ありがとうございました。今、「風の谷のナウシカ」について論文を書いて言います。Kさんのhomepageをインターネットで拝見しましたが大変面白かったと思いますね。私はこのマンガ作品の独自の世界観に魅力させた。「私達の神は一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っている」とてもアニミズムっぽいだと思います。そして、その穢れと清浄と同時に大事にすること、あらゆるものは命の尊いさがある見方などは、今の時代に非常に興味深いですね。

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    1. アニミズムは自然界のあらゆる生物・無生物に個別の霊魂を認めるものです。
      一方、ナウシカの言う神は、あらゆる生物・無生物に普遍的に内在するものです。
      これはアニミズムというより、汎神論"Pantheism"と呼ぶべき考え方でしょう。
      いずれにせよ、善と悪の二元論ではなく、異なる存在が混在する状況を自然と捉える考え方は、これからの時代に必要だと私も思います。

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